2016年6月26日日曜日

「受け取る」ことには覚悟も必要

こんにちは。すっかりご無沙汰しています。
こんな更新ペースにもかかわらず覗きに来てくださる方もいらして、思いがけず嬉しいです。ありがとうございます!

洋服売り場はすっかり夏服だらけですね。
私はTシャツのデザインを見るのがけっこう好きで、
というか正確にはTシャツにプリントされた変な英語を探すのが好きなんですが(英語得意じゃないのに。性格悪いww)
これがなかなか面白くて。思わぬメッセージを受け取ったりします。

先日、洋服屋で見かけた3枚のTシャツ経由のメッセージが
ちょっと「おおっ?」と思ったので、シェアさせてもらいたくなりました。

Tシャツ1枚目。ぼん!と目に飛び込んできたヤツには

その1。 ”A word to the wise is enough”

と書いてありました。
辞書で調べたところ、日本のことわざで言う「一を聞いて十を知る」の意味なんだそう。

私はそれを知らなかったので、直訳的になんとなく
「理屈も御託も十分だ。どうせ見破られるのだから(by 宇宙)」
といったニュアンスで捉えていました。

でも、Tシャツ共からのメッセージはこれだけにとどまりません。
その隣の洋服屋にディスプレイされたTシャツ(2枚目)には

その2。 “Please let this work”

と。・・・う~ん?この英文はなんかビミョーな感じのアレかなとか考えていたところ
別のTシャツ(←3枚目)に、ばばーん!と

その3。 “MIRACLE”

と書いてある。

2、3枚目を両方つなげたら・・・
なんとなく意味が繋がって、「奇跡に委ねなさい」みたいになりません(´ε` )?

3枚のTシャツプリントから受け取った3つのメッセージ。
自分の誤訳も含めて私なりに解釈したのは、
『思考や戦略はもう充分だ。あとは奇跡の起こるままに任せなさい』
という感じです。

う~~~。なんだか、スピリチュアル的にはよく耳にするフレーズ。
それもそうだね、もっともだよね。
でも。本当にそうだとして、私は「奇跡」とやらを受け取るのがまだまだ怖いのです。

奇跡ってなんでしょね。
今のところ、私は「嬉しすぎる何か」だと思っています。
人智を超えたなにか、とかいうけれど(自分では想像も及ばないものなのだろうと)
それがたとえ自分にとって待ち望んでいたような嬉しいことで、
そのために準備も努力もしてきたとしても、
覚悟ができていないとしたら・・・?
怖いです、ほんとこわい。

私ですね、先日、スマホゲームの「イングレス」で、すっごい広大な陣地を作れちゃったんです。
たかがゲームなのに、作る直前は心臓バクバクで・・・怖くてたまりませんでした。
自分史上初だったので、「まさか!嘘にちがいない!」と(笑)
不慣れなことはこわいんですよ~!ほんとにもう。

そんなわけで、
嬉しすぎるなにかを「受け取る覚悟」も、必要だなと思った次第です(*^_^*)



2016年5月4日水曜日

直感/「答え」を捨てる

先日、友人と話していて感じたことなのですが
直感からくるものを言葉で説明しようと思うと、すごく長くなってしまうなぁと。

たとえば、「なんでそれをやろうと思ったの?」と訊かれ、
それに対して「なんとなく(そう思ったから)」としか答えようがない場合。

そうしたものは直感から来ているとは思うのですが
明白な根拠や強い動機がないという点で
正確に説明しようとなると、ものすごく情報量が多くなってしまう。
実際、こまかいハナシの積み重ねでもあり
多くの、しかも一見関連のない要素の集まりから成り立っているからです。

自分の動機ひとつとっても、過去のいくつもの出来事や人間関係から生じているし
加えて私の場合、個人的なハナシを延々と言うのもなんだかなぁ、という抵抗感があります。

どこかで「質問が1つなら答えも1つに絞るべき」という思い込みもあったと思います。

そうした私自身の理由がありつつも、
相手の捉え方によっては「なんとなく、直感で」という返事が気分を害する場合がある…ということが
私には「とても恐い」のだと、
浮かび上がってきました。

(というよりは、より深い部分では「他人を怒らせることが恐い」のですが(^_^;))

さらに、「直感」を他人に言うこともあたしゃ恐いんだよ、ぶっちゃけ。

納得のいくデータもなければ正解もない。
一問一答というわけにはいかない世界。
自分には居心地よくてもまだまだ社会(?)にとっては「はぁ~?」な世界の、「直感」。

いつの間にかこれが自分らしさの一部になっていました(なぜならラクだからw)。

それが恐くて出せないというのは
私にとっては自己表現やらコミュニケーション全般にまたがる、範囲の広い問題がまだまだあるためで
原因もこれまた同じく、それこそバラエティに富んでおります。

…ということに、「答え」を探していた頃の私ならそもそも気づけなかったと思います。

答えを求めるということはそもそも問題の存在と対になっていて、
さらに言えばその「問題」のニュアンスとしては、「(あってはならないので)解決すべきこと」みたいな感じがするんですね。

(なので、「テーマ」とか「課題」と言い換えてもよいかと)

こうやって捉えていると、苦しいしかえって迂遠です。

ですが、人間必ず変われるし癒される。必ず。

焦ることもあると思うんです。
でも癒しに早いも遅いもない。
それに「問題がある」からすなわち「大丈夫ではない」と結論を出すのは違うデス。

…こういう、立証することができない世界のハナシでヤバいかな、と思うのは
盲信服従してしまうこと。

自然に「大丈夫」と思えるぶんには、本来気兼ねも遠慮もいらないのです。

逆に、その「問題」があると大丈夫と思えないのはどうして?と
自分の内側を探っていくと色々な思い込みに気づきやすいかもしれません。

そんなことを身近な、アンチスピリチュアルな友人たちに伝えたいなと思いながら
お手紙の気分で久々にブログ書いてみました。
(相変わらず理屈っぽいですが。笑)

2016年4月2日土曜日

今日のわんことノンデュアリティ


こんにちは。すっかり春めいて…というか、桜が満開寸前ですね。わぉ。

私は犬が特に好きなので、散歩中のわんちゃんを時々ワシャワシャします。
今日のわんこはしっとり湿っていたので今の私は全身犬くさいぞ!

今日のわんちゃん、おもろかった。
基本的に女好き(笑)でとりわけ熟女好きなんだとか。
特に60代位の女性が大好きで、なんならついて行っちゃうんだって。(ほんとにそうだった!目の前にそれらしき女性が通りかかったらピャーと追っかけてた!)
聞けば飼い主さんの亡くなった奥様の面影を追っているようなのです。

で、飼い主さん(男性)にはあまりなついてないとの事で、このおとうさんボヤくボヤく。
アレルギーだから金かかる、俺の事が嫌いなくせに構わないと吠えまくる、妻と一緒にコイツも逝ってくれたらよかったのに…とかおっしゃる。

犬好きとしては、心がちくっとします。一瞬泣きたくなります。
確かにこのわんちゃん、ケアされてるとは言いづらい感じでしたが
それについて善し悪しで語るつもりはありません。
このおとうさん自身がとにかく追い詰められ、またうちひしがれている状況なのは話から察するに余りある感じ。
で、繰り返しますがお世話がどーのこーの言うつもりはないです。

このわんちゃん、なつっこくて本当に可愛かった。(おまけに賢い!)
かまってかまって~!って、全力なんですね。
そしてケアされないのは、この子のせいじゃない。
しかし犬も愛情を求めていて、可愛がられたいのだと、強く思った次第です。

失礼を承知のうえで書くと、人間の子どもも似たような感じじゃないかな…と。
わんこはまだラクだけど(それでもすねたりふて腐れたり有形力の行使に出たりするんですが)、
人間の子どもだったら、色々もっとやるよねぇ。

ふと、全くの別件を思い出しました。
もう数年前の事ですが、私が車を運転中に、小学校低学年くらいの子が石を投げつけてきたことがありました。

こちらは全く被害もなかったので忘れてたけど、
急に思い出したのは、あのときの子の強烈な悲しみと同質だったからだと思っています。
愛されたくて、かまってほしくて、
怒られてもいいから僕を見てよ、というような。

悲しい叫びだったと思います。

自分が幼い子どもだった頃はどうだったろうかと、ふと考えました。

私の場合は、身近な親や親戚から粗末に扱われた記憶ばかりが出てきます。
当時の気持ちを言語化するならば、子どもながらに「他人ならまだしも、身近な人たちからこんな扱いを受けるのは自分がダメで悪い人間だからなんだ」といったところでしょうか。
そんなインプットを強烈にしてしまったように思います。

いつしかそういう自分に全ての責任があるのだと思い込み、
楽しい事もあったのかもしれないけど、そういうものは思い出せない。
だから、必ずしも自分の記憶(と、その捉え方)が正しくはなかったかもしれない。
ですが、私もまた、可愛がられたくて必死にオトナになろう、迷惑かけず役に立つ人間になろうとしていたのだなという事を、「思い出した」というより「わかった」のでした。

子どもの時分に愛された記憶がないというのは、本当につらい。

動物と違うだろう点としては、人間はそれを周りと比較とかしてしまって、余計にしんどくなってしまうこと、かも。

でも、人間やっててよかった…と思うのは、自分で変わることができること。
変わる、というよりは過去の自分に囚われなくなる(≒今ここに生きる≒過去がある意味で″消える″ゆえにすべては幻想ぉ~だとかストーリーだっ、とか)、という感覚が近いのかなと思いますが
このへんはなんだか最近はやりの非二元論チックですね(^_^;)

まだ私自身腑に落ちきってない部分なので、いつかまとめて書けたら…と思います。

ノンデュアリティを体感したとしても、「感情」の存在は消せないんじゃないかとは、ほんのりと思います。

2016年2月22日月曜日

固まったチャクラと部分的な運動

信号待ちをしていたら、乗りたかったバスが目の前でぴやーっと行ってしまった。
バス停は信号を渡ってすぐの所だったので、時間にすればあと15秒もあれば間に合った・・・というタイミングでした。でも、次のバスまで20分待ちなので、隣のバス停まで猛ダッシュすること約600メートル。
間に合いましたよ。というか、こっちが死ぬほど走ったにもかかわらず乗りたかった肝心のバスが急な渋滞にはまったりして、足が速くもない私が、逆に2分待つという結果に。無事に乗れたとはいえ、ハンパない疲労感だよ苦行だよ(あらま、五七五だわ)。強風に煽られて顔真っ赤でもう鼻水ベロベロだし。

これは「走らされた」なぁ、と思いました。
こういうタイミングが悪い時には自分の波動のダウンを省みたりもしますが、今回は直感の部分で「強制的に運動させられたなぁ」という感じです。
だって、600メートルダッシュなんてねぇ。大の運動嫌いな人間(私のこと)がねぇ。やるわけないじゃん。

しかし、思わぬメリットがありました。猛ダッシュ後は全身で息をせざるを得なくなり、深呼吸ってこんなに苦しかったっけ・・・?と思ったのです。

常日頃、いかに自分の呼吸が浅かったかを痛感しました。
そもそも胸郭が狭くなっているんですね。だから深呼吸が苦しくて、余計に運動したくなくなる。
おまけに、座り作業が多いと下を向く姿勢が長くなるし、どういうわけか、アタマで考えることが多くてもそうで、上を向くとか体を外側に”開く”姿勢になりづらい。
私の場合で言えば「上半身が固まりがち(しかも内向き)」な姿勢になるのですが、ラクにしているつもりでいて、実際のところカラダはだんだんと固まっていたのかもしれません。

これでちょっと”チャクラ”との関連を思い出しました。
過日、プリミ恥部さんの宇宙マッサージを受けたのですが、その時に言われたのが「第3チャクラがずいぶん固まってて・・・」ということでした。
ほんとにこの当時、私はみぞおち部分の背中側がピンポイントで痛くて、それが本や通説通りの第3チャクラの位置だったこともあり、「ひぇっ」と思いました。
日頃みぞおち部分をかばうような姿勢だからそのあたりのチャクラが固くなるのか、その逆なのかわからないですが、プリさんから「その”部分”を動かすといいですよ」という嬉しいアドバイスが。

それぞれのチャクラには象徴される意味があって、たとえば第3チャクラの場合には「自尊心」がテーマのように言われることが多いようです。
私の場合はまさしくそうで、「自尊心の低さゆえに自分を責めてしまう・自己表現を抑えてしまう・喜びを味わうことを制限してしまう」といった課題があります。
(こういうのは人によってケースバイケースなので、「ふーん、そんなこともあるのかもね」程度でよろしくね。
ちなみに、私が教わったエネルギーワーカーさんによると、チャクラは人によって位置が違ったり変動することもあるとか。なので、”ここが痛いからあのチャクラが問題なんだ”といった捉え方よりもご自分の直感重視がよいかと思います)

そうでした、全身運動じゃなくてもよかったんでした。

なので今そのあたり(胸郭)をせっせと動かしたり、広げたりしています。
つっても、オードリーの春日のポーズを真似してるくらいなんですが、これがええ塩梅なんですわ。(ハト胸になって、「ふッ」っていうアレね。)
骨の可動域が広がる感じがして、呼吸もずいぶんラクです。もっとも、普段あまり使っていない筋肉を使っているので長時間は保たないのですが^^;

あと、春日の「カスカスダンス」が地味にいい感じで

<div class="v-wrap al-c m30-b"><iframe width="560" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/SVBOIrvi_B0" frameborder="0" allowfullscreen></iframe></div>
なにげに第3・第4チャクラをカバーしている動き

(【追記】すみません。上記の埋め込みから観られないかもしれないので、リンクを以下に置いておきます)
https://youtu.be/SVBOIrvi_B0

ヨガとかやったらいいのかもしれないけど、今はこれがマイブームです。(なんかすごく負けた気がしますがw)

固まったチャクラのバランスを取るには全身運動じゃなくてもアリですよ、部分的に動かすだけでも違うよー、という話でした。


2016年1月8日金曜日

信念は自分でつくれる。

すっかり久々の更新です。もともと筆不精ではあるのですが、「大したネタもないからなぁ。まぁいいか」と思っていたところに予想外のトラップが。理由をすり替えていたことがわかりました。どこかで「いいこと言わなきゃ」っていう見栄があったんですね。それに加えて、自分がまだ十分に癒されていない、ということも。
これらをとある方から指摘してもらって、途中経過でもいいから少し書いてみよう、という気になりました。

私は、言葉尻にとらわれてしまうところがあります。例えば、「それでいいよ」と「それがいいよ」のニュアンスの違いとか気になるタイプ。なので、自分の言葉や文章についてもけっこうな自己検閲をしてしまう部分があります。
イヤな誤解をされたくないと同時に、自分の言葉のせいでイヤな思いをしてほしくない。

でも、言葉の表現がどうのこうのというよりも、ハートの部分で受け止めてくれたか、ということは、小さな子どもでも分かると思う。
裏をかえせば、「あっ、ちゃんと伝わってないな」というのもなんとなく分かる。

* * * * *
1年ほど前、「自己犠牲」について考えていた頃がありました。
その頃の私は、最終的に自分が折れたり重要なニーズをあきらめたり、とにかく自分を明け渡すことでようやく周囲が丸く収まる・・・というパターンを繰り返していたので、自称”視えるひと(以下・うさんくさ氏)”に言ってみたことがあります。

私「なんか、自己犠牲ばっかりでイヤなんです。こういうの変えたいんですよね」
うさんくさ氏「自己犠牲、いいんです!どんどんやりましょう!」
私「えっ、でも・・・」
うさんくさ氏「自己犠牲を続けてれば勝手に報われますから。利子もついてきますからね!」
私「 えっ」
うさんくさ氏「幸せなことじゃないですか」
私「 」

ほとばしる”違う、そうじゃない”感。なんぞこれ。返ってきたのは謎のアドバイス(いや、むしろ”クソ”バイスだろコレ)。
この出来事は、私にとって「言葉の選び方」について考えさせられるものでした。
私が真意を上手く伝えられなかったからだ、とか、私の”自己犠牲”という言葉の使い方が誤っていたのかもしれない、とか当時は色々と考えていましたが、そういうこっちゃない。単にうさんくさ氏が自身の価値観と信念を私に伝えただけで、私の言葉の選び方がどうのこうの・・・という問題ではないんですね。

自己犠牲で報われる・幸せになれるという考え方には、今の私は真っ向から反対します。
だけどおそらく、いちいち反論したりはしないと思う、面倒くさいですし。

自分軸がなかった当時の自分ではなんかモヤっとするけど、何がどうおかしいのかわからないから反論なんてしようがない。そして何もつっこめないまま、それがきっと正しい事なのだと、これでいいのだと、無理やり自分に言い聞かせて苦しい毎日をしのぐだけで精一杯だったと思います。

もっとも、自分軸ができてくると、やみくもにnoを言うことはなく、自分の信念も相手の信念もどちらアリだと思えてくる。
一見して相手に合わせていることが、明け渡すことではなくなる。尊重して納得して譲り合う感覚になってくる。
外側は同じでも、やってる中身は全く変わります。「奪われる・取られる」のではなくなります。なにより、自分で選択しているから、被害者にはなり得ない。
自分で選択し続けていくことの積み重ねが、信念や自分軸になってくれるのだと思います。

なんか書いてるうちに当初の予定と違うオチになってしまいましたが、今日は強めの主張をしまして、締めたいとおもいます。

ではこれにてドロン。

2015年8月27日木曜日

頭だけで解決することの落とし穴

皆様、ご機嫌いかがお過ごしでしょうか?
昨日8月26日はマザー・テレサのお誕生日だったそうです。
私のスマホにはちょっとしたおまけ機能がありまして、ケータイ本体を振るとケータイの「中の人」が喋る機能がついています。
うっかり振ったら中の人、(長くなりますが・・・と前置きした上で)マザー・テレサの名言を読み上げ始めました。

『思考に気をつけなさい、
          それはいつか言葉になるから。 ・・・(段落A)

言葉に気をつけなさい、
          それはいつか行動になるから。 ・・・(段落B)

行動に気をつけなさい、
          それはいつか習慣になるから。 ・・・(段落C)

習慣に気をつけなさい、
          それはいつか性格になるから。 ・・・(段落D)

性格に気をつけなさい、
          それはいつか運命になるから。』・・・(段落E)

もう真夜中にも関わらず、私、不覚にも心を激しく揺さぶられ、ぶはッと奇声をあげてしまいました。ああ、本当に深く染み入る言葉です。

ぐうの音も出ないほど説得力に満ち、納得できる言葉ですが、以前の私ならば
「えーと、いま行動を変えたいわけだから、じゃあ逆算して言葉と思考に気をつければいいんでしょ」とやっていたと思います。自分の課題が段落Cにあるから、段落AとBをクリアすればよいのだ・・・と。

上記の名言を図式化して、それに従った場合ならこれは「正しい」やり方だといえるでしょうが、そういうもんじゃないなぁ、と今は思います。

例えば、言葉に気をつけて1日100回「ありがとう」と言ったって、果たして本当に他人に感謝ができるようになるだろうか、という疑問が生まれます。
個人差はあるでしょうが、仮にエネルギーのこもっていない口先だけの「ありがとう」を100回言う習慣は根付いたとしても、果たして人に感謝できる性格になるかどうか・・・
気持ちのこもった「ありがとう」を1回でも伝えられたら、その人はもう既に「感謝できる人」なのだと思いますが
こうした図式化したパターンから外れたものが規格外のものとして、「失敗」扱いされる可能性が高くなります。それが人間であったとしても。

頭だけで解決することの落とし穴は、こんな感じであらわれます。
ご参考になれば幸いです。

2015年8月19日水曜日

自分と向き合った先にある解放

皆様、いかがお過ごしですか。
サイン3連発がありましてね、ちょっとびっくりして。
たまたま買い物をしたコーヒー屋さんが「TERA」で、別の場所でふと見かけた看板が「スタジオ テラ」、この日初めてお会いした方も「寺田さん」。
キーワード「てら」。これが1時間くらいの間に続いたので、鈍い私でもさすがに気づいたんですが、意味するところがちょっと分からないんですね。単位のテラか、地球のTerraか、寺に行けという事なのか。
なので、もっと私に分かるように教えて、と”上の方々”にリクエスト中です。
あっ、こういう時にキレても大丈夫ですよ。わかんねーよ、分かりやすく言いやがれ!とかね。それでバチが当たるとかありませんからね。

何かのサインとかお知らせがもっとズバーンと来ればいいのに、とは常々思っているのですが、それだけ見逃してしまいそうな程に、変化というのもまた自然な事なのかもしれません。
自分にとってのテーマの移り変わりどきも、はっきり分かるとは限らない。むしろ後から「そういえば、あの頃から何か変わった感じだなぁ」と気づく事が多いように思います。

”自分を癒す”ということを考える時に、私にとって避けて通れない最重要テーマが「家族への思いを癒すこと」だったのですが、ここへきて心の平和が訪れています(今は別のテーマについてやっとります)。
「赦す」なんて尊いものではなく、ただ気にならなくなった、そこに囚われなくなったというだけの話ではあるけれど
感情に向き合い、膿み出しがすすんだおかげで「家族にも愛されなかった、不幸な私」という認識を、自然にずいぶん切り離せたと思います。
これからも揺り戻しはあるかもしれないし、昔の恨みつらみがひょっこり顔をだすこともあるだろうけど
もし、この平穏が得られると最初からわかっていたら、”鉄板の蓋はがし”もそんなには恐くなかったかもしれません。

この鉄板で蓋をした中身にしたって、元はと言えば見るのも辛すぎてフタをしちゃったわけですから、いかに自分をレスキューするためとは言え、そこを見るのはやっぱりしんどい。時が経ってもしんどい。
だから、自分と向き合う作業は楽しいばかりとも言えず、時間もかかると思います(これについてはかける「べき」だと強く言いたい)。
その途中には痛い記憶や感情も出てきちゃったりして、のたうちまわっちゃったりして。
でも、そうした未処理の感情を感じつくして出しつくしたその報酬は・・・解放される、揺らがない自分軸ができる、といったところでしょうか。
・・・うーん。なんだかなぁ、地味なごほうび、って感じはしますね(汗)

いずれにしても、「自分と向き合う」。これだけでもう、立派なセラピーなんですよ。
すぐに人生が上手くいくような華麗な魔法とは言えないですが、少なくとも自分に対する理解が深まるというメリットはあります。
まぁでもやっぱり、地味よねぇ。もうちょっと、キラキラ感が欲しいよねぇ。やる気でないもん、正直(笑)