2016年1月8日金曜日

信念は自分でつくれる。

すっかり久々の更新です。もともと筆不精ではあるのですが、「大したネタもないからなぁ。まぁいいか」と思っていたところに予想外のトラップが。理由をすり替えていたことがわかりました。どこかで「いいこと言わなきゃ」っていう見栄があったんですね。それに加えて、自分がまだ十分に癒されていない、ということも。
これらをとある方から指摘してもらって、途中経過でもいいから少し書いてみよう、という気になりました。

私は、言葉尻にとらわれてしまうところがあります。例えば、「それでいいよ」と「それがいいよ」のニュアンスの違いとか気になるタイプ。なので、自分の言葉や文章についてもけっこうな自己検閲をしてしまう部分があります。
イヤな誤解をされたくないと同時に、自分の言葉のせいでイヤな思いをしてほしくない。

でも、言葉の表現がどうのこうのというよりも、ハートの部分で受け止めてくれたか、ということは、小さな子どもでも分かると思う。
裏をかえせば、「あっ、ちゃんと伝わってないな」というのもなんとなく分かる。

* * * * *
1年ほど前、「自己犠牲」について考えていた頃がありました。
その頃の私は、最終的に自分が折れたり重要なニーズをあきらめたり、とにかく自分を明け渡すことでようやく周囲が丸く収まる・・・というパターンを繰り返していたので、自称”視えるひと(以下・うさんくさ氏)”に言ってみたことがあります。

私「なんか、自己犠牲ばっかりでイヤなんです。こういうの変えたいんですよね」
うさんくさ氏「自己犠牲、いいんです!どんどんやりましょう!」
私「えっ、でも・・・」
うさんくさ氏「自己犠牲を続けてれば勝手に報われますから。利子もついてきますからね!」
私「 えっ」
うさんくさ氏「幸せなことじゃないですか」
私「 」

ほとばしる”違う、そうじゃない”感。なんぞこれ。返ってきたのは謎のアドバイス(いや、むしろ”クソ”バイスだろコレ)。
この出来事は、私にとって「言葉の選び方」について考えさせられるものでした。
私が真意を上手く伝えられなかったからだ、とか、私の”自己犠牲”という言葉の使い方が誤っていたのかもしれない、とか当時は色々と考えていましたが、そういうこっちゃない。単にうさんくさ氏が自身の価値観と信念を私に伝えただけで、私の言葉の選び方がどうのこうの・・・という問題ではないんですね。

自己犠牲で報われる・幸せになれるという考え方には、今の私は真っ向から反対します。
だけどおそらく、いちいち反論したりはしないと思う、面倒くさいですし。

自分軸がなかった当時の自分ではなんかモヤっとするけど、何がどうおかしいのかわからないから反論なんてしようがない。そして何もつっこめないまま、それがきっと正しい事なのだと、これでいいのだと、無理やり自分に言い聞かせて苦しい毎日をしのぐだけで精一杯だったと思います。

もっとも、自分軸ができてくると、やみくもにnoを言うことはなく、自分の信念も相手の信念もどちらアリだと思えてくる。
一見して相手に合わせていることが、明け渡すことではなくなる。尊重して納得して譲り合う感覚になってくる。
外側は同じでも、やってる中身は全く変わります。「奪われる・取られる」のではなくなります。なにより、自分で選択しているから、被害者にはなり得ない。
自分で選択し続けていくことの積み重ねが、信念や自分軸になってくれるのだと思います。

なんか書いてるうちに当初の予定と違うオチになってしまいましたが、今日は強めの主張をしまして、締めたいとおもいます。

ではこれにてドロン。

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