2016年4月2日土曜日

今日のわんことノンデュアリティ


こんにちは。すっかり春めいて…というか、桜が満開寸前ですね。わぉ。

私は犬が特に好きなので、散歩中のわんちゃんを時々ワシャワシャします。
今日のわんこはしっとり湿っていたので今の私は全身犬くさいぞ!

今日のわんちゃん、おもろかった。
基本的に女好き(笑)でとりわけ熟女好きなんだとか。
特に60代位の女性が大好きで、なんならついて行っちゃうんだって。(ほんとにそうだった!目の前にそれらしき女性が通りかかったらピャーと追っかけてた!)
聞けば飼い主さんの亡くなった奥様の面影を追っているようなのです。

で、飼い主さん(男性)にはあまりなついてないとの事で、このおとうさんボヤくボヤく。
アレルギーだから金かかる、俺の事が嫌いなくせに構わないと吠えまくる、妻と一緒にコイツも逝ってくれたらよかったのに…とかおっしゃる。

犬好きとしては、心がちくっとします。一瞬泣きたくなります。
確かにこのわんちゃん、ケアされてるとは言いづらい感じでしたが
それについて善し悪しで語るつもりはありません。
このおとうさん自身がとにかく追い詰められ、またうちひしがれている状況なのは話から察するに余りある感じ。
で、繰り返しますがお世話がどーのこーの言うつもりはないです。

このわんちゃん、なつっこくて本当に可愛かった。(おまけに賢い!)
かまってかまって~!って、全力なんですね。
そしてケアされないのは、この子のせいじゃない。
しかし犬も愛情を求めていて、可愛がられたいのだと、強く思った次第です。

失礼を承知のうえで書くと、人間の子どもも似たような感じじゃないかな…と。
わんこはまだラクだけど(それでもすねたりふて腐れたり有形力の行使に出たりするんですが)、
人間の子どもだったら、色々もっとやるよねぇ。

ふと、全くの別件を思い出しました。
もう数年前の事ですが、私が車を運転中に、小学校低学年くらいの子が石を投げつけてきたことがありました。

こちらは全く被害もなかったので忘れてたけど、
急に思い出したのは、あのときの子の強烈な悲しみと同質だったからだと思っています。
愛されたくて、かまってほしくて、
怒られてもいいから僕を見てよ、というような。

悲しい叫びだったと思います。

自分が幼い子どもだった頃はどうだったろうかと、ふと考えました。

私の場合は、身近な親や親戚から粗末に扱われた記憶ばかりが出てきます。
当時の気持ちを言語化するならば、子どもながらに「他人ならまだしも、身近な人たちからこんな扱いを受けるのは自分がダメで悪い人間だからなんだ」といったところでしょうか。
そんなインプットを強烈にしてしまったように思います。

いつしかそういう自分に全ての責任があるのだと思い込み、
楽しい事もあったのかもしれないけど、そういうものは思い出せない。
だから、必ずしも自分の記憶(と、その捉え方)が正しくはなかったかもしれない。
ですが、私もまた、可愛がられたくて必死にオトナになろう、迷惑かけず役に立つ人間になろうとしていたのだなという事を、「思い出した」というより「わかった」のでした。

子どもの時分に愛された記憶がないというのは、本当につらい。

動物と違うだろう点としては、人間はそれを周りと比較とかしてしまって、余計にしんどくなってしまうこと、かも。

でも、人間やっててよかった…と思うのは、自分で変わることができること。
変わる、というよりは過去の自分に囚われなくなる(≒今ここに生きる≒過去がある意味で″消える″ゆえにすべては幻想ぉ~だとかストーリーだっ、とか)、という感覚が近いのかなと思いますが
このへんはなんだか最近はやりの非二元論チックですね(^_^;)

まだ私自身腑に落ちきってない部分なので、いつかまとめて書けたら…と思います。

ノンデュアリティを体感したとしても、「感情」の存在は消せないんじゃないかとは、ほんのりと思います。

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